1949~1961年 (故鈴江武彦による回顧録から)
自宅が全焼したとき、従兄弟の康平氏の家も焼けだされたが、私の自宅の焼跡に私共を探しに来てくれたことが置き手紙で分かった。
私(武彦)は兄(美昭)と共に世田谷区等々力の武彦の次姉(鈴江孝一、正二弁理士の母)の借家の家に居候生活をしだしたが、そのことが逆に姉夫婦を近くの家に押し出す結果となってしまった。この土地は九品仏の近くで大きな池があり、よく散歩をした。また、この九品仏に現在私(武彦)の家の墓地を買い祖先を偲んで五輪の塔を立てた。この五輪の塔には鈴江内外国特許事務所の名も刻んである。この等々力の家で生活するしか道がないので、鈴江特許事務所を再建することとし、私が弁理士資格をとったが、戦時中の苦労がたたってか、肺結核下葉切除という大手術で伯父(近太郎)、父(長次郎)に大変迷惑をかけた。そのとき私の高校の友人、平野君、田中君、下村君の三人と所員とが事務所を助けてくれてやっと生活も安定してきた。日本に特許商標の認識が深まると共に特許事務所も順調に広がっていったのである。
父は焼跡の土地を売却して、世田谷代田一丁目の斉藤茂吉が住んでいた家を買って、そこに事務所を移した。静かな住宅街であったが、応接間を事務所とし、6人の構成員で仕事をしたので、等々力時代と異なり信用が維持できた。
この時代は偽物が国内で多く流通し、特に薬品、菓子類に多く、この偽物排除のために単独商標で有名な会社が多数の出願及び侵害、そして訴訟手続を依頼してくれ、偽物一掃時代であった。私は各地にも出向き、27~28才位の若さをなんとか年老いて見せようと服装、毛髪にも気をつかった。ただ、若い自分がこの地でいつまでも事務所を開いていることには納得できず、結婚を期に安いビルでよいから都心のビルに引越すことにした。
場所として自宅からそう遠くなく、国電の駅の近くで、特許標準局の虎ノ門まで路面電車が通っている安い物件を探した。その結果、国電田町駅前の森永会社隣りの徳栄ビルを借りることに決定した。このビルは戦時中に焼けた倉庫を修理して出来た3階建てビルで、3階にのみ事務室が数室ありこの一室を事務室として借りた。最初は10坪位の事務室で、それから10年後
ビル改築のため出されるまで3回同ビル内で事務室を変えてもらって、段々と広くし、最終的には50坪の事務所となった。
この時以来、大会社の特許課が当事務所を利用してくれるようになった。徳栄ビルの場所は丁度Y字路の角の眼につくところなので、そこに事務所の大きい看板を掲げた。
徳栄ビルの3階事務室はクーラーもなく、冬の底冷えにもダルマストーブ(当時の名称)1台という環境だから、夏はTシャツ、冬はコート等を着て夜遅くまで残業し、帰りがけには「ふくちゃん」という飲み屋に皆と一緒によく飲みに行ったものだった。この時代は弁理士3人になっており、私(武彦)の家内(京子)の高校の友人3人が英文タイプのアルバイトをしてくれた。
1949年(昭和24年) | 等々力に事務所開設 |
1951年(昭和26年) | 斉藤茂吉の家を購入し「代田」に事務所移転 |
1953年(昭和28年) | 鈴江武彦 東北大学工学部通信工学科卒業 |
1954年(昭和29年) | 6月19日近太郎氏逝去のため弁理士登録抹消 鈴江武彦が事務所を引継ぐ |
1955年(昭和30年) | 田町(徳栄ビル)に事務所移転 |
1957年(昭和32年) | 鈴江武彦 日本大学法学部法律学科卒業 外国部設立 |
1958年(昭和33年) | 鈴江武彦 弁理士会常議員就任 |
1959年(昭和34年) | 平沢昇(鈴江所長義父)外国部長就任 三木武雄 東北大学工学部講師を就任 |
1960年(昭和35年) | 審判訴訟部分の設立(訴訟事件の増大) |
1961年(昭和36年) | 鈴江康平 科学技術庁事務次官に就任 |