1962~1969年 (故鈴江武彦による回顧録から)
徳栄ビルの建替えで田町より強制的に撤去させられた。行き先は銀座に行きたいという気持ちがあり、最初の銀座一丁目での3年間と銀座五丁目(みゆき通り)の5年間、分室も利用しつつで通算8年以上を過ごしたことになる。
銀座はさすが日本の繁華街の中心で食事は安いところでもうまいし、街には美人も多く、銀座時代をよかったと思う人が多い。しかし銀座には大ビルがなく、エレベータが7階までなかったり、あっても1基しかない状態で、致し方なく分室を設けつつ事務室面積を拡大してきたが、ついに手狭になり、まとまった場所へ行きたいという要望が多く出たので、それなら特許庁の近くにとなった。
銀座一丁目の千成ビル時代に、鈴江工業所有権研究所を作り、ここで実務に関することのみをとり上げて英文と和文の季刊雑誌を創刊し、世界の主要弁理士に送付すると共に、顧客へ情報源として提供した。この種の雑誌の出版は、この業界において一番早かったと信じている。
銀座五丁目界わいには、適当な駐車場がなく、車の駐車は築地の近くに行けば道路に置いても違反にならなかったので、そこまで行って駐車した。その往復は毎日楽しみでもあった。また銀座五丁目のときはパチンコを昼休みや帰りによくやったもので、一球づつ手ではじいて行うパチンコ台がストレス解消にもなって気持ちとしては落ち着けてよかった。
1962年(昭和37年) | 銀座(第一千成ビル)に移転 |
1964年(昭和39年) | 鈴江武彦 東北大学講師に就任 千葉一宮に保養所開設 |
1965年(昭和40年) | 東銀座(ニュー東京ビル)に移転 技術部門を1,2,3部に改称 [外国工業所有権ニュースと論評]発刊 |
1966年(昭和41年) | 鈴江工業所有権研究所設立 海外向け[JAPAN PATENT NEWS]発刊 |
1967年(昭和42年) | 所内誌「鈴」第1号発行 |
1968年(昭和43年) | 鈴江武彦 工業所有権制度問題対策委員会委員就任 訴務室設立 |
1969年(昭和44年) | 「鈴江・三木・小宮特許事務所」に改称 鈴江武彦 弁理士会副会長就任 鈴江工業所有権研修所設立 |